目次

1.納豆の歴史には伝説かいっぱい

日本の生活に根づいて作られてきた食べ物だけに、納豆の起源や名前の由来など、納豆にまつわる伝説は各地に残っています。そのひとつに、聖徳太子がかかわる話もあります。

聖徳太子が、現在の滋賀県湖東町横溝という地で仏像を完成させ、帰る途中その地の「笑堂」という場所で、馬に煮豆をやりました。煮豆が余ったので、わらでつとを作ってその中に入れ、木の枝にかけておいたところ、納豆ができたというわけです。村の人たちが食べてみるとたいへんおいしかったので、聖徳太子に製法を聞いて、作りはじめたといいます。

いささか作り話めいていますが、中国から仏教とともに伝わった唐納豆なら、仏教を広めた聖徳太子との関係もわかります。たぶん、唐納豆と糸引き納豆とが渾然として伝わったのだろうといわれます。

南北朝政争の犠牲者、光巌法皇にまつわる話もあります。出家した法皇は、諸国行脚の末に、丹波山国(京都府北桑田郡)の寺でひっそりと暮らしていましたが、あわれに思った村人が、煮豆をわらに包んで献上しました。村人の好意をありがたく感じた法皇は、それを大切に少しずつ食べていくうちに、糸を引くようになったので、塩をふりかけて食べてみると、これがおいしい。そのことが村人にも伝わり、それがいまでも続いている丹波山国納豆だとのことです。

この丹波山国には、「家つと」にした煮豆が納豆になった、という伝説もあります。わらつとの「つと」は、わらで包んで持ち運びに便利にしたものをさし、「家つと」はおみやげの意味になります。煮豆をわらつとにしておみやげを持たせたところ、発酵して納豆になったというわけです。


2.しょうゆとの出会いによって広まった納豆
日本で一般に糸引き納豆が普及したのは、鎌倉時代を経て、室町時代くらいではないかといわれています。近代文化の幕開きともいえるこの時代になると、庶民の暮らしもかなり余裕がでてきて、食文化的なものが生まれてきています。中国から伝わった唐納豆はおもに寺で作られており、寺と密着していた上流社会のものでしたが、それが衰退していき、かわりに糸引き納豆が台頭してきだようです。

室町時代に書かれた平家物語のパロディの中で、納豆が「納豆太郎糸重」として擬人化されて登場していることが、すでにかなり庶民に普及していた証拠でしょう。 納豆がこの時代に台頭してきた理由には、しょうゆとの出会いも重要だったようです。前にもいいましたが、日本独自のたまりじょうゆができたのが、室町時代から江戸時代にかけてのころ。

いまでは納豆にしょうゆを加えるのは当たり前ですが、しょうゆができる前には、ただ塩をふりかけるだけで食べていました。しかししょうゆと出会うことで、より風味のある納豆を味わえるようになったことが、普及に大きなはずみをつけたようです。

戦国時代も終わって江戸時代に入り、庶民の生活が安定してくると、納豆はさらに大衆化し、やがて需要に応じて専門業者が現れ、「ナット、ナット」と町を売り歩くようになりました。

この納豆の売り声は、現代に入っても、第二次大戦後しばらくの間までは盛んに聞こえていましたが、最近ではほとんど消えてしまったようです。納豆売りを覚えている年代にとっては、懐かしい思いがすることでしょう。

3.なぜ納豆は水戸の名物になったのか
納豆といえば、いまでは茨城県・水戸の名物として有名ですが、水戸が納豆の名産地となったのは意外に新しく明治に入ってからのことです。

それまでも、水戸では各家で自家用に納豆が作られていました。しかし明治初期、水戸の笹沼清左衛門という人が、古文書を読んでいる時に、「江戸で糸引き納豆というものが好んで食べられている」という文章を発見、それを水戸の名物にしようと思いついたといわれます。

彼は早速有り金をはたいて製造を始めたもののうまくいかず、宮城県まで修行にでかけています。帰郷の際に宮城の技術者を同行し、その後、納豆作りに邁進。明治23年に常磐線が開通すると、駅前で乗降客用に納豆を売ったのが大人気を博し、大正に入るとホームの弁当屋が納豆も一緒に売ってくれ、昭和になると、ホームで納豆だけを売ることができるようになりました。

もともと茨城産の大豆は、納豆作りにマッチした優秀な小粒だったこともありますが、こうした駅売りという新しい販売手段によって、水戸の納豆は一躍全国的に知られていったのです。

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